● トニー・フォッカー Anthony Fokker ●

Anthony Fokkerは,1890年,オランダ人の父親が経営するコーヒー農園があったインドネシアで生まれたが,4歳の時には一家はオランダに帰国していた。


勉強嫌いな彼は,高校を中退しているが,機械には深く興味を持っており,1910年になると父の意向で,自動車技術を学ぶべく,ドイツのBingen技術学校に留学することになるが,1908年にフランスで催されたウイルバー・ライト(Wilbur Wright)の展示会を見て触発され飛行機に興味を持っていた彼は,すぐに「Erste deutsche Automobil-Fachschule」へと転校する。そしてまもなく,処女設計・制作の「de Spin(蜘蛛)」という機体を作り上げたが,操縦を委ねたビジネスパートナーが木に衝突し廃棄,そこで彼は自身で2号機「Spin(下写真)」を操縦し,航空機免許を取得した。



幾つかのデモ飛行により名声を得た彼は,1912年にベルリン近くに「Fokker Aeroplanbau」社を設立,フランスで実用機として軍に採用されたモランソルニエの単葉機タイプH/Gをベースに,1913年に鋼管布張りの「M.5」を設計製造,更にはEシリーズへと発展する。また,パイロットとしても優れたいた彼は,同じ頃に操縦学校も設立している。

モランソルニエ タイプH ↓

フォッカー A.III (制式採用後に改名=E.III)↓

フォッカー M.5k ↓

フォッカー M.5(L?) ↓


フォッカー M.5 ↓


フォッカー E.III ↓


フォッカー E.III ↓


フォッカー E.IV ↓


フォッカー E.IV ↓


フォッカー E.IV ↓
オーバーウーゼルU.IIIエンジン≒グノーム・ラムダ・ラムダ160hpと機銃3丁装備の様子や鋼管骨組みが良く分かる。こんなエンジンが回転していたと思うと空恐ろしい。 ↓



ファルツ A.II ↓


ファルツ E.I ↓







後に社名は「Fokker Flugzeugwerke GmbH」,「Fokker Werke GmbH」へと改名され,歴史に残る著名な航空機を設計・製造することになる。

フォッカーD.I ↓


フォッカー B.II ↓


フォッカー D.III ↓



フォッカー Dr.I ↓


フォッカー D.VII ↓



1次大戦中は,著名なドイツ機を次々と開発した彼は,終戦翌年にはオランダに帰国,1922年にはアメリカに移住し,国籍を取得し,フォッカーのアメリカ支店を展開したが,1931年になると,そのすべてを「GM(General Motors)」に売却,1939年,49歳でアメリカで病気により他界した。