アルゼンチン 3  フエゴ島1 世界最南端の町へ

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1983年4月初め。フエゴ島には1週間程滞在した。冬も「初冬」を過ぎ,緯度も南緯55度になり,寒さが厳しくなる。

正確に言うと,フェリーに乗った場所はチリだ。ちょうどマゼラン海峡の辺りは国境が入り組んでいて,「アルゼンチン(本土)」→「チリ(フェリーに乗る)」→「チリ(フェリーを降りる)」→「アルゼンチン(ウシュアイア)」となる。フェリーはバイク共々片道1200円位。




フェリーを降りる。ここはまだチリ領だ。国境に向かって南下する。ウシュアイアの町へは国境を越えてアルゼンチンに入ることになるが,国境に着くと,イミグラシォン(入管)もアドゥアナ(税関)ももう仕事が終わっていて,この日はこれ以上進めない。

国境付近,というかフエゴ島にはウシュアイア以外には町はなく,ホテルもない。そこで税関員に頼むと泊めてもらえることになった。税関宿舎の一室を借りられた。おかげで宿泊費が浮いた。




首だけの女性は自縛霊...ではなく,職員の家族だったと思う。ワインを振舞ってくれた。右下の鯨の骨が面白い。右端がアリというドイツ人。同い年位だった。左端がその弟。二人ともそれぞれヤマハXT550で駆っていた。

中央がティディ。途中で彼ら兄弟と知り合ったという。彼は少し年上の30位で,ドイツに帰国したら学校に入って何かのマイスターの資格を取ると言っていた。

そして,「帰ったら結婚が待っている,幸せだけど不幸だ」 と苦笑いしていた。 結婚に対する男の想いは皆同じなんだな,と思った。彼もヤマハのXT550で一人で南米を廻っている。




↑ 今回の旅では多数の写真を撮ったが,お気に入りは20〜30枚位しかない。その写真の一枚。


国境を通過し,アルゼンチン領に入り,ウシュアイアの町に向かっていた。途中で雨が降り出し,遅くなって雪に変わる。本当に寒かった。

太ももから下と,ひじから先が殆ど感覚がなくなるような状態だった。町に着いてもひざが曲がったまま伸ばせなくなり,バイクから降りるのも大変だった。

普段はごっついモトクロスブーツを履いていて,雨だとその上に防水の為にビニール袋みたいものを被せているが,水が入って来る。視界も路面も最悪で,おまけに当時のトレール車のライトはちょうちん並みだった。

思うようなペースで走れず,大幅に予定が遅れた。この日は,夜9時頃まで走ってようやくウシュアイアの町に入った。




↑ 何とか町に着き,手頃なホテルをさがした。1泊15アルゼンチンペソ。当時のレートで500円位。ちょっと高い。ウシュアイアは小さな町だけど,フリーポートだ。つまり輸入品に関税が掛からない。

そこで電気屋に行きソニーのウォークマンを買った。15000円と当時の日本より安い。店の人が,「何で日本人がわざわざこんなとこでウォークマンを買うんだ」 と真面目な顔で尋ねて来たのを覚えている。

その後,レコード屋でテープを十本ほど買った。フォルクロレとアイドル物。こちらで売っているカセットテープは,レコードから録音されたものが多く,プチプチとスクラッチノイズが入っていたりする。海賊版か正規版かよくわからない。




見るからに寒々し風景だ。世界最南端の町という「称号」だけで何にもない観光地。いまはどうなってるんだろうか。きっと観光ズレしてるんだろうなぁ。

俺は一面の砂漠とか岩山とか,なんにもない風景って好きだ。

バイクの整備も兼ねて,同じホテルに3泊する。例のドイツ人達と相部屋だ。バイクではないがイスラエルから来ている男2人組も同室。




↑ この写真は,記念写真や証拠写真じゃなくって,男の深いところにある「本性」をとらえた,いかにも男臭い,とてもいい写真だと思う。


三日目。荷物はホテルに預けたままで,ちょっとしたキャンプ道具と食料だけを積んで,町の少し南にあるラパタイア国立公園に向かった。交通手段がないので,ホテルで一緒になったイスラエル人2人も乗せて行くことになった。左から3番目のサングラスがイスラエル人。

なんともアンビリーバボーなのは,一番右のハンス。俺なんか,自分がこんなところに居ること自体がアンビリーバーボーだったのに,彼の左足はなに?

そう骨折してる。彼は一人で旅をしていたが,アルゼンチンに入り,アリ兄弟と知り合って,ヒッチハイクでここまで来た。よほど気が合ったのだろう。バイクにヒッチハイクって日本じゃ聞かない。

その後がある。パタゴニアを走っているときに,羊にぶつかって足を骨折したと言う。病院があるような町がなかったので,軍の基地に行って手当てしてもらったらしい。それでもめげずにバイクの後ろに乗ってここまで来た。ドイツ人は凄い。

もう一人のイスラエル人は?そう,俺のカメラを持ってこの写真を撮ってる人。上にも書いたように,彼の撮ったこのワンショットの意味は,俺にとってはとても大きい。




国道3号線はアルゼンチンで一番長い。立て札にあるように,首都から総延長3242kmの終点だ。

日本人とアメリカ人の観光客に会いたければ,交通の便がよく,快適な宿と食事がある観光地に行けばよい。当時は,こういうところで出会うことは殆どなく,ほっとした。

こういうところで出会うのは,ドイツ人かイスラエル人と相場が決まっている。長い歴史が語る「移動」の遺伝子がそうさせるのかも知れない。そうそう,物好きな変わり者の日本人がまれだが居る。




↑ これも好きな写真だ。


ウシュアイアに入った日とは打って変わって,滞在中は天気も良く,昼間は心地良い日差しの元でくつろいだ。

当時すでにBMW800というオフロード車が出ていたが,整備性と価格からヤマハを選んだと3人ともが言っていた。2気筒以上のバイクは整備が面倒だ。BMWのバイクは全て水平対向2気筒で,それに加えて重い。

反面,最低500ccはないと苦しい。俺のカワサキKL250は非力過ぎた。予想はしていたが,南アメリカ大陸は俺の予想をはるかに越える程に広く,高低差も大きかった。

標高4000mを越えるところをバイクで走るとどうなるか?その話は,ボリビアのところでいずれまた。




3台のXT550は,ともにガソリンタンクを大きなアルミ製のものに改造してある。兄弟の2台は荷物用の丈夫ででかいアルミケースを載せ,フレームの補強もしてあった。

このアングルから見ると,まさに躍動する「鉄馬」だ。今にもイナナキを上げ,前足で空を切って駆け出しそうだ。この旅では「旅人たち」だけでなく,「鉄馬たち」も輝きを放っていた。




俺はバイクに改造を加えるだけの資金がなかったので,ほぼ無改造。はやりそれでは,文字通りこの旅には「荷が重すぎた」ようで,結局は途中でフレームが折れたりスタンドが曲がったりと,その度に鉄工所を回って,あちこち溶接して補強することになった。

アリ達は鉄工所で道具を借りて自分達で溶接をしていた。前にいた学校で覚えたらしい。俺も大学の時,バイトで溶接を覚えた。


ドイツのマイスター制度は合理的で優れている。日本の社会とは違って,高校や大学を出た後,旅に出たり働いたりして,その後またマイスターになる為に学校に入り直せる。出来る時にしたい時に勉強が出来る。

アリ兄弟も帰国したら,一度学校に戻ってから就職するのだという。彼等もこの制度のことを自慢気に話していた。




ラパタイア国立公園にはホテルはなかった。店もなにもない。写真にあるような小屋が2棟ほどあるだけだ。オフシーズンなので,ここも管理人は居なかった。当然,電気も水道もないが,露や風をしのげる小屋は使えるようになっていたので,ここでキャンプをする。

小屋は外も中も小奇麗で,落書きなんかひとつもない。小屋に入り,床に寝袋を並べて雑魚寝だ。昼間の穏やかさとは一変し,夜はかなり冷え込む。寒くても窓を開けて寝るのが好きだと誰かが言い出して,しょうがないので少し開けて寝た。確かに気持ちは良かったが寒かった。




みんなそれぞれの材料で自炊をする。手前のガソリンコンロと鍋は俺の。また米を炊いている。奥ではイスラエル人がなにやら作っていた。食事の時にはお祈りをしていたなぁ。ここには2泊した。その間なにをしてたのだろう。

写真のような景色が回りに広がるだけで何もない。写真のように寝っころがったり,写真を撮ったり,彼らと取り止めのない話をして過ごしていたに違いない。




アリ  :「ほら,野うさぎだ。」
ハンス:「とって夕飯にしようぜ。」
俺   :「捕まりっこないさ。」

どこまでが冗談で,どこからが本気か。なんだか楽しかったなぁ。


「地の果て」での1週間は,どの時間よりも静かに過ぎていった。



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