アルゼンチン 8  ベルナスコニ2 友



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ベルナスコニーでの時間



なぜか気に入ってしまった村,ベルナスコニー。小さい村ゆえに,俺の噂はすぐに村中に広がった。日本からの珍客ということで,ホテルに訪ねてくる子が居たり,村の高校に呼ばれたこともあった。

「日本人」だから珍しいというのもあったのだろうが,それ以上に,やはりバイクで旅しているということが珍しかったのだろう。




この村に着いた当時の写真だ。顔が痩せている。この村を出るころにはコロコロとしていた。珍しくセーターを着ている写真だ。アルゼンチンを走っていたのは冬だったので,このセーターはよく着ていたが,その写真は多くはない。

この写真の殆どが高校生だが,大人も一緒に歓迎会をやってくれた。当時はまだそれほどスペイン語が話せず,歯がゆい思いをしていたっけ。

高校生も公認でワインを飲んで楽しんでいる。多分法律上問題はないのだろう。チリもそうだが,アルゼンチンでは皆よくワインを飲む。




滞在中はずっと同じホテルに泊まっていた。こちらでは「オスペダーヘ」と呼ばれる民宿のようなホテルだ。「ミ・カシータ(私の小さな家)」という日本にもありそうな名前のホテルで,3〜4室しかないが,小奇麗でいい部屋だった。

食事はないので,町で1軒のスーパーで肉や野菜や米を買って,毎日裏庭で自炊していた。肉売り場のオジサンとも顔見知りになり,よくおまけをしてもらった。みかん好きの俺は,毎日のようにマンデリン(みかんとオレンジの合いの子のような温州に近い形の柑橘類)を買っていた。




右がこのホテルの経営者。しっかり者の奥さんは離れた町で学校の先生をしている。子供はまだ居ない。中央がメルセデスという名のメイド。左がその彼氏。

当時のアルゼンチンはインフレが酷かった。1米ドルが闇レートで85000アルゼンチンペソ。公定レートで70000ペソだった。

「闇レート」とは,中南米の殆どの国に当時存在した違法な対米ドル交換レートだ。経済力のない中南米の国々の通貨は弱く,公定レートで換金されることはなかった。

どういうことかというと,日本から米ドルで現地の銀行に送金しても,ドルで引き出すことは出来なかった。つまり,外国為替は自由化されていなかったのだ。

日本も昔,1ドル360円時代があったのは知ってると思う。当時は,海外旅行も自由ではなかったし,持ち出せるドルも上限が決められていた。

外貨準備高のない当時の中南米では米ドルの入手は殆ど不可能で,それゆえ,金のある現地人は公定レートよりも高くても,ドルを買おうとした。それが闇レートを生む。

また,その時が来たら書くが,唯一,中米のパナマだけで米ドルを引き出せた。なぜなら,パナマには独自の通貨がなく,米ドルが流通していたからだ。


この宿では1泊約150000ペソ。約2米ドル弱だから,当時の円ドルレートでは500円ちょっと位。 余り安くはないが,清潔な部屋だったので満足だった。

ガソリンは1リットルで20000ペソだから,60円位。タバコひと箱が70円位。インフレが本当に酷く,ゼロの数がものすごく多い。現地の人は,ゼロを4つ取って使っていた。つまり,宿代は15ペソ,ガソリンは2ペソといった具合。

でも,勿論,紙幣にはゼロがいっぱい並んでいる。さらに毎日インフレが進み,昨日70円だったタバコが,今日には90円に,その翌日には100円にとえらいことになっていた。

公定レートは変わらないが,物価の上昇に伴って闇レートは上がるので,一度に多量のドルを換金してしまうと大変なことになる。現地の人はさぞ大変な生活苦だっただろう。滞在中に通貨切り上げが行われ,実際にゼロが4つ取れた紙幣が流通し始めた。

一般の観光旅行では,安全の為に米ドルの「TC=トラベラーズ・チェック(旅行小切手)」を持っていくが,それは銀行などの公定歩合でしか換金出来ない。

だから,中南米を放浪する旅人は皆,危険でもキャッシュのドルを持ち歩いていた。俺もそうだった。このインフレは,ボリビアという国ではもっとえらいことになっていた。その話はまた別の機会に。




一番仲が良かったカルロス。彼は高校には行かず,親の家業の小さな修理工場を手伝っていた。彼の家によく遊びに行き,時折ご飯を食べさせてもらった。

どちらかというと貧しい家で,まだ小さな妹がいた。牛肉の国のアルゼンチンだか,現地の人はなかなか口に出来ず,彼の家では,レバーなどのソーセージがよく食卓に出た。正直,旨いものではなく,喉を通らなかった。

これが現実だ。こういった生活の中で,フォルクロレで歌われる歌や,想いが生まれて来るのだと実感した。日本は豊かだと初めて実感した。

それでも,オヤジさんが預かって面倒をみていた競走馬のサラブレッドに乗せてもらったり,彼の家の小さなトラックで出かけたり,彼のお陰で楽しく過ごせた。


カルロスは俺よりは5つか6つは年下だったと思うが,純真で誠実な彼は人間性に溢れていた。同和ではないが,彼ら家族は他から少し差別的な目でみられたいたように感じた。

移民が殆どのこの国ではそういった差別もあるのだろう。また,経済的な差も差別になるのだと思う。学歴もそうなのかも知れない。でもそんなことは,その人間を計るには何の基準にもならない。


ある日のこと,オヤジさんと彼と三人で郊外に出掛け,ピストルで空き缶を撃たせてもらった。「これは違法だからな」って口止めされたっけ。

俺は,2台持っていたカメラの一台を彼にプレゼントした。せめてもの彼への想いだった。物でしかその想いを表せない自分を口惜しくも思ったが。

帰国後も1・2度手紙を交換した。アルゼンチンは徴兵制があるので,1〜2年行くことになり,軍からの手紙を受け取った。マルビナス(フォークランド)紛争がニュースになり,気にはなったが,大丈夫だったらしい。

戦争での友人の安否を気遣わないといけない国もある。本当に日本と言うのは,脳天気で,平和ボケした国だと思ったよ。




もう一人の友人,ガト。「ガト」とはスペイン語で「猫」の意味。勿論あだ名だ。本名は忘れた。彼はこの村で写真屋をやっていた。それで一緒に白黒フィルムを現像したり,プリントしたりして過ごした。

彼もこの村ではちょっと浮いた感じで,なかなか気があってよく遊んでた。真ん中の女の子が飲んでるのはアルゼンチン名物の「マテ」だ。日本の煎茶に似ている葉っぱを容器に入れ,少量のお湯を入れ,好みで砂糖を入れる。

それを金属製のストローのようなもので吸う。自分専用の容器はあるのだが,回し飲みも良くする。なくなると数回お湯を足し飲む。




彼等以外には,この高校生達ともよく遊んでた。特に男の子達とはビリヤードをしょっちゅうやっていたなぁ。4つ玉。白球2個と赤玉2個のゲーム。


抱きついている男の子は,当然,抱きつかれている女の子を好きだったが,片想いのようだった。右端の女の子と抱きついている男の子はいとこ。左端の男の子は寡黙で,暗い感じだった。

中央のでかい男はおっさんぽいけど,ちょっときどった高校生。自分は映画スターに似ていると自慢してたなぁ。みんな可愛いもんだ。




家に遊びにいってトランプをしたり,なんだかわからない遊びをしたりしていた。




アルゼンチンでは,この真っ赤なダウンジャケットとその下のセーターが俺のトレードマークだった。



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