【実機について】
H.P.マーチンとG.ハンダサイドの共同出資で,1908年にイギリスに設立されたバイクと飛行機の製造会社である。第1次大戦機前は,飛行機の設計・製造を行い,第1次大戦中は,イギリスで3番目の航空機界社であった。
第1次大戦中から大戦後に掛けて,1915になると,社名をマーチンサイド(Martinsyde)社に改称し,V12気筒ファルコンエンジンを搭載したF.3を製造してが,エンジンがブリストル社のF.2に回されたので,イスパノ・スイサのV8エンジンを搭載したF.4 Buzzard(ノスリ)を開発したが,当時最高速の戦闘機として,同社でのヒット作となったが,アメリカ・イギリス・フランス軍から合計3,000機の発注があったが,370機ほどを製造した時点で終戦を迎えた。しかし,その後は,イギリスの軍用機関係の精算会社であるADC=Airdisco(Aircraft Disposal Company:1920-1930)社に製造が引き継がれ,各国に輸出され続けた。最後の機体は,フィンランド空軍で1940年まで就役している。
戦後は,センスを購入し,バイクの製造に移行するが,1922年の工場の火事により,経営権をBat Motor Manufacturingに移譲したことで,会社は終焉を迎えた。
1910年に初飛行に成功している単葉捻り翼機の試作機No.3がこの機体である。製造数は1機のみで,その後,複座のNo.4B(Dragonfly)が,1911年に製造されている。この機体はソッピース(Thomas Sopwith)の注文で製造され,1911年にロンドンのオリンピア航空ショーに展示された。
No.3,No.4ともに,アントワネット機と同じ逆三角形断面の胴体を有する。コクピットというべきものがなく,僅かな段差しかない掘りごたつのような操縦席には,シートベルトもなかったようで,機体がバンクしたらそのまま機外に転がり落ちそうな構造だ。
当初は,60馬力のアントワネットのV8エンジンが搭載されていたが,後にJ.A.P(John Alfred Prestwich:1874-1952)の40馬力に換装された。アントワネット社に関しては,「飛行機の発展とその裏事情 序巻」のP24に詳しい。
J.A. Prestwichは,元々,光学機器を製造していたが,1902年頃からバイクのエンジンの開発も開始し,その後,第1次大戦中も,多くの航空機用部品やエンジンを供給した。第1次大戦後も,Morganのスリーホイラー用のエンジンやエアロンカC3のJ-99エンジンを初め,多数の産業用エンジンを開発・製造している。会社としては,第2次大戦後の1951年に,J.A.Prestwich and Company Ltdから,JA Prestwich Industries Limitedへと変遷し,1964年まで存続した。映画関連の部門は現在も存続しているという。